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治田 洗礫 Profile
治田 洗礫

@Harita_arayshi

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小学生時に「地図」と「道路」にはまって50年/車の運転、漢字、ビール、写真、Shostakovich、鉄道、Carpにも心が躍ります。 地図についての発表:

新潟市
Joined October 2016
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
太陽光発電施設の地図記号案。こんな色の方がそれらしいかな、地味すぎるか… いずれにしろ、面的な地図記号を作って、リスクのありうる施設を地図上で明記してほしいと思います。
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治田 洗礫
3 years
日本の鉱山・鉱業がまだ”華やか”だった時代、昭和34(1959)年の鉱業地(鉱山・炭鉱・油田)をまとめた地図。欲張ってビジーな印象ではあるが、黄金時代という雰囲気がある。戦前は「鉱物の標本箱」とも言われた日本だが、現在はコスト的に見合うのは石灰石と金くらいになってしまった。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
1 year
戦前、1939(昭和14)年の航空路地図。注意書きに赤字で「空中よりの写真撮影は”其の筋より”絶対禁止されて居りますから御注意下さい」。その他、搭乗御注意には、「機内の喫煙は自由!」「防音耳綿」「カメラは持ち込まず預けろ」、この時代でも「朝昼の御食時には簡単な御食事を差上げます。」
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
「京都府伏見市」が載ったレアな地図。 伏見市は1929(昭和4)年5月1日に誕生。1931(昭和6)年4月1日に京都市に編入して消滅した。伏見市が存在した日数は700日で、改称で消えた市を除けば、日本の「市」の中で最も短命。また、日本初の合併や編入により消滅した市でもある。冨山房発行「新日本地図」
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治田 洗礫
3 years
道東の昭和31(1956)年の鉄道路線。国鉄は旧池北線が網走本線で石北線は支線。私鉄は雄別炭砿鉄道などいくつもあった。サロマ湖は猿澗湖だ。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
NHKがこの4月から、番組の終わりの「終」の表示を廃止したようだけど、何か理由やポリシーがあるのだろう。4月に入る週の新番組から消えていて、現在でも再放送の番組では表示されることがあるようだが。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
6 years
昭和25年の中学校社会科地図帳(���国書院)では、韓国がハーヌ民国、中国がチョンホワ民国と表記されている。ペキンはペイピン(北平)になっている。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
地理院地図で東京湾の真ん中あたりを見ると、海上に細長い構造物が描かれている。注記も何もなくて、地理院地図だけでは何者か不明だが、グーグルマップの航空写真で「京葉シーバース」とわかる。ここにタンカーが着岸し、海底のパイプラインを通じて千葉県の東京湾岸4か所の製油所に原油が供給される
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
「東北地方」と「奥羽地方」 戦前の地図に東北地方という表現はあまり見ない。みんな「奥羽地方」だ。そのほうが妥当だったように思う。 明治末期ころになされた東北帝国大学や東北本線の命名が、その後「東北」が主流となる布石になったのかな。東北帝大は当初は札幌農学校も含んでいたけど。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
1 year
隆起が続く #硫黄島 。戦前の地形図と比べると… 別の島と見紛うほど…
@GSI_chiriin
国土地理院
1 year
【リリース】 拡大する硫黄島の地図を更新!! 大きな地殻変動が続く硫黄島の地図を全面的に描き直しました。 その結果、硫黄島の面積が、約6㎢(東京ドーム約 130 個分)増加しました。 詳しくはこちら↓
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
6 years
大正15年の軍備地図(冨山房)。知らなかったことがたくさん載っている。 宇都宮や久留米は軍都だったんだ。陸軍師団の管轄は県を分割しているところもある。新潟県は仙台の第二師団の管轄か。海軍は大きく3分割で大きな軍港3つが鎮守府。詳しく見ると面白そう。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
1 year
JR北海道の #留萌本線 、石狩沼田―留萌は2023年3月31日で営業を終了し4月1日廃止となった。早速、地理院地図は即時の #迅速更新 で線路を抹消…。昨日を最後に使われなくなった線路はまだ撤去されていないだろうに…。英国みたいに廃線の地図記号があればいいのになぁ…
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
これは凄い! 樺太への宗谷トンネル(稚泊トンネル)の予定線(?)まで描かれているし、拡大すると天北線の廃線跡も出てくる。北海道の地名はちゃんと日本語で表示されるし、ウズベキスタン鉄道公式サイトの世界鉄道地図って何者⁉️
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@mtfs125
まー
3 years
なんかウズベキスタン鉄道公式サイトサーフィンしてたら世界鉄道路線図みたいなのでてきたんだけど、結構正確でびっくりしてる
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
6 years
昭和30年の日本書院の高等地図に載っていた、昭和25年国調人口。 現在と市域が違うとはいえ、おおよそ2倍から4倍になっている都市が多いが、とびぬけているのが札幌の6倍や千葉の7倍。一方で人口が減少しているのが、大牟田、小樽、門司、室蘭、夕張、舞鶴、若松(北九州)、田川、戸畑、美唄など。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
11月3日は、1103で「いいおっさんの日」 「おっさん」という地名は日本には無さそうだったが、北イタリアに『オッサン(Ossan)』という場所がある。グーグルアースの地図とストビューで「オッサン通り」を散歩してみる。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
1985(昭和60)年の高速道路網。免許を取って3年目で、盛んに日本中をドライブしていたころだ。開通予定の”60年”は昭和。関越が繋がる直前で、北陸道は上越ー朝日が未開通。東北道、九州道ももう一息で全通。山陽道はまだほとんど未開通の時代だ。ワクワクしながら相次ぐ開通を楽しみにしていた時代だ。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
2 months
大正8(1919)年の #20 万分1帝国図 で #京都 を見ると、まだ市域は狭い。#伏見町 まで長い市街地が繋がるが、伏見稲荷は #深草村。#百万遍 は田中村。東海道線は山科南回りの旧線。山陰線の西は田畑が広がる。#巨椋池 を突っ切る奈良電(現近鉄京都線)はまだこれからだ。淀町と淀村があったのか…
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
むかし、高速道路の入口に「自動車無料点検所」なるものがあったのか! 昭和56(1981)年3月発行の「道路施設のご案内」の筆頭に載っているのだが、いつ頃まで稼働していたのか。東京ICと京都南ICにあったとのことだが、グーグルの航空写真で見ると、京都の方にはそれらしい痕跡がある。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
昭和39(1964)年のミリオン道路地図。国道8号の直江津(上越)ー糸魚川は相当な酷道だったようで、欄外の解説に、「ひどい」「悪路」「上下左右に腹わたを揺すられる」と表現。首都高や名神も一部開通している時期の一桁の一級国道なのに…。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 months
戦前の #20 万分1帝国図 は美しく精緻な図が多く惚れ惚れとする。大正時代の京浜間。山手線は東京市外、目黒や蒲田は村である。東京府内、植生の #地図記号 がない空白域が多いが、それは普通の畑。「V」の記号は桑・茶または三椏畑だ。畑が空白なのは行軍・進軍の障碍にならないからとも言われている
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
1 year
明治時代、#北海道 は #十州 とも呼ばれていた。すでに北海道という呼称もあった明治2年に11の律令国が分割命名され、千島を除く北海道本島が10か国のため「十州島」。明治41年の三省堂の地図には、本州、九州、四国、樺太とともに十州の注記。北海道の名称が優れていて、十州は結局定着せず…
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治田 洗礫
2 years
天塩川の #河跡湖 が今朝のNHKさわやか自然百景で放映されたが、原始のままの #蛇行 と河跡湖の群れが、さらに北の大地、樺太(サハリン)にある。Googleの衛星写真と1940年の #陸地測量部 #地形図 を見比べると、変わっていない、そのままだ。自由奔放、形も多様だが、80数年では変わらないものだな。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 months
いまから #59 年前、昭和40(1965)年の #茨城県。小学館の百科事典の別冊地図。 #鹿島港 もなければ、#つくば もない。 地図にはまるのがこの6~7年後なので、自分にとっては夜明け前。 霞が浦や竜ヶ崎の地名表記が気になる。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
11 months
#ブラタモリ #北九州 では、例を見ない大都市5市の対等合併という説明で昭和10(1935)年の都市人口を挙げていたが、地図で示すならさらに古いが、昭和2(1927)年だと、東京周辺の市が千葉、川越、八王子、川崎、横浜、横須賀以外に無かった時期に関門には5市と下関が集積していたことを示すことができる
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
1 month
#根釧台地 の #殖民軌道。 道もほとんど通じない原野に盲腸線の軌道。終点に数件の家屋と学校! 生徒は何名いたのだろう。先生は毎朝、軌道で通って来たのか、村に住んだのか。厳冬期はどんなだった? どんな暮らし?どんな景色?想像もつかない…
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
2 years
日本ゼロメートル地帯選手権。 地理院地図の色別標高で低地を塗り分けてゼロメートル以下を濃紫にして全国を表示してみたら濃尾平野と新潟平野が目立ったが、よく見ると各地に存在するので27代表を選んで並べてみた。干拓地、地盤沈下地帯など出自はいろいろなようだが・・・
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治田 洗礫
8 months
#令和6年能登半島地震 で #国土地理院 が緊急撮影した #空中写真 を見ると、#珠洲市 の #長橋漁港 は #隆起 で完全に陸化してしまっている。また、約10年前に開通していた #国道249号 #大谷道路 は #ループ 部分が一部損壊しているので通行不能だろう。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
昭和初期の「東京」の範囲。 昭和5(1930)年には東京市は15区で新宿、渋谷、品川、日暮里、亀戸は東京市外だが、電話や郵便はすでに東京市内の扱いだった。さらに東京都市計画区域は、ほぼ現在の東京23区の範囲と一致する。 改造社の日本地理体系の付図。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
昭和4(1929)年の国内の島々の面積と人口の比較。三省堂の「最新日本地図」から。南樺太は大きいが九州より小さく台湾と同じくらい。台湾の人口は当時は多くないんだな、400万人くらいだ。樺太はあの広さにまだわずかな人口しかいない。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
9 months
大正12(1923)年版と書かれた東京市区分図(便覧社)の中の1枚、東京郊外全図。図中に市は東京市と八王子市のみ。練馬は農村、世田谷も村。川崎はまだ町。中央線沿線は、中野町の次の町は日野。立川もまだ村。関東大震災の年。 ちょうど #100 年前 だけど、次の100年後はどうなっているだろう。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 months
大正14(1925)年、99年前のさいたま市周辺。当時埼玉県の市は川越のみで、大宮も浦和もまだ町。原市が大きいのが意外。原市は江戸時代には市場町として栄え、上尾宿よりも人口も多かったらしい。 鉄道に見放された悲哀かな?他の町々から取り残されるように、原市からは都市機能が失われていったよう。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
6月15日は「千葉県民の日」 1873年のこの日、印旛県と木更津県が合併して千葉県が誕生したことによる。下総が千葉・茨城の二県に分かれた事とか、水郷の辺りの県境とか、複雑でいろいろ疑問も多いが、参考になる文献も貼ってみる。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
1 year
#城下町の城と駅。山形のような例は #長岡、#福井、#福山 がある。長岡は戊辰戦争で城が壊滅し公園になっていたので本丸跡地の東半分に駅ができた。福山は町家の密集地を横切って豪快。その時々の技術レベル、政策的事情、住民感情などが絡み合ってのものだろうから、経緯を調べると面白いだろうな。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
地方中核都市を同縮尺で並べてみた。仙台・新潟・金沢・岡山・広島・松山・福岡・熊本・鹿児島。中心駅と繁華街に☆を入れてみた。仙台駅・松山市駅は繁華街に近い。新潟駅と万代シティは近いが古町は遠くて衰退気味。福岡は大都市だからこの距離でもコンパクトシティ感があるのだが...。(続)
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 months
戦前の #20 万分1帝国図 は美しく精緻で惚れ惚れする。大正時代初期の千葉周辺。千葉はまだ町。遠浅の干潟はどんな風景だったか。中心集落と町名が一致しない明朝体の町名は、3村1字取りの #津田沼 と #馬加(まくわり)の #幕張。船橋から一直線の #東金御成街道 は将軍鷹狩用にて宿場町なし。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
この構図と縮尺で北海道と樺太の関係を見るのはけっこう新鮮で、樺太の大きさと”遠さ”に少し意外な印象を受けた。 宗谷岬と西能登呂岬は近いけど、稚内ー大泊はけっこう距離があって、90海里=約170km。富内(トンナイ)湖はサロマ湖とほぼ同じ(やや大きい)。大正14(1925)年の冨山房の日本地図から。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
本日、八ッ場ダムが地理院地図に反映された。 もう見れない昨日までの地理院地図と更新後の地図を貼る。 昨日までダム底の道路は通行できた、わけはない。国道が通行止めになった時点からせめて改変中の表示にはできなかったのかな。 更新後も陰影起伏図は古いままなのでダム底の地形が透けて見える。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
1 year
稚内の人口は、昭和32(1957)年頃に5万人。その後6万人近くまで増えた後、減少に転じて、いまや3万人強。 地図を見るとその間に市街地はかなり拡大。人口は減ったのに都市は拡大、都市が拡大したのに人口減、って全国的な現象。世帯人員の減少も一因。世帯数は8000世帯から1万7000世帯に倍増以上してる
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
1 year
#ブラタモリ #稚内。稚内市の #人口 のピークは約60年前の1964(昭和39)年頃で6万人にとどこうとしていた。1975年頃からは減少の一途。あと2年ほどで3万人を切ってしまうかも… 市街地は郊外に拡大傾向。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
7 months
士幌線 #十勝三脵 も相生線 #北見相生 も、終着駅ではなくてまだ先に予定線があったという昭和5(1930)年の鉄道省の #鉄道線路網図。三国峠・層雲峡越えのみならず、雄冬岬にまで鉄道を通そうという、机上の空論的な予定線も数多く載っている…。美幸線、白糠線、石勝線は予定にない。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
5 years
佐渡の鉄道予定線。 昭和5(1930)年鉄道省発行の鉄道線路網図。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
昭和4(1929)年の三省堂の「最近日本地図」から、大都市の拡大図を比較。東京市は15区時代で、面積は大阪・名古屋・横浜より狭いが市域を大きくはみ出して市街化。他の都市は市域外への連坦はまだわずか。大阪市は当時からの市域の拡大が最も少ない(平野区・鶴見区など)。縮尺はほぼ揃えてある。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
中学生当時、一生懸命買い集めた旅行ガイドが交通公社の「新日本ガイド」で、これは地図に惹かれたのではなく、内容が全国平等に全市町村の項目があったりして、たいへん地理学的な内容が気に入ったからで、大学生の時の旅行計画で大活躍した。観光地の評価等、とても真面目すぎるガイドだった。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
最近の通過人員が10人/日くらいとほとんど機能していない芸備線の東城ー備後落合間。自分が子供の頃買った1976(昭和51)年の時刻表では、新見⇔広島や津山⇔広島の急行も走り、小奴可は急行停車駅だった。普通列車も7本あった。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
昭和31(1956)年の道北の鉄道。国鉄羽幌線はまだ中抜けで北は天塩線。南から築別まで(ほぼ当初から羽幌炭砿鉄道に連絡)だった期間は昭和16(’41)~32(’57)年と長く、羽幌・築別炭砿のパワーを逆に見せつけている。羽幌町は昭和40(’65)年に瞬間風速的に人口3万を突破したが、その時に市になっていたら…
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
10 months
#敦賀 と交通路。明治26(1893)年の地形図には敦賀港(金ヶ崎)が終点の鉄道。M42(1919)年では北陸線が北伸し金ヶ崎へはスイッチバックに。昭和7(1932)年では線路付替えでスイッチバックが解消。現在、港への支線は消え、来年には新幹線が描かれる。高速道路と国道と、道路交通の結節点だ。#ブラタモリ
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
5 years
「永遠のニシパ」の松浦武四郎が作った北海道の詳細な地図「東西蝦夷山川地理取調図」は国立国会図書館のデジタルアーカイブで見ることができます。貼り付けたのは室蘭の部分と八雲近傍を拡大したもの。内陸の川の注記がすごい!
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
昭和34(1959)年の帝国書院の中学校社会科地図に載っている「児島湾の干拓」の主題地図。児島湾の締切堤防上を通って宇野線を短絡して八浜を経由する鉄道予定線が描かれている。こんな計画があったのか・・・
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
Google Earth Studioで新潟市を飛んでみた。 ビルの間を駆け抜けてみたかっただけ。 萬代橋から柾谷小路と東中通を抜けて、市役所から県庁に飛んで新潟駅に戻る、というコースです。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
1 year
昭和29(1954)年の富士波出版社の学習地図「新潟県」の裏面の「いろいろの町」は都市の類型を示しているが、鉱工業都市を機業・金物・金山・その他の工業に分けている。赤谷は金山じゃないけどね…。あと糸魚川は城下町という認識がなかった…
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
1931(昭和6)年8月25日、羽田飛行場(現 東京国際空港)が開港した。地理院地図で表示される空中写真で現在までの経過を動画にしてみた。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
8 months
1963(昭和38)年の石川県地図(日地出版)で #能登半島 を見てみる。 裏面に記載の #人口 (昭和35年国勢調査)は、奥能登(鳳至、珠洲の2郡域)に15万人強が暮らしていたことがわかる。昨年末には約5万8千人…
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
5 months
#昭文社 の1978年の全国鉄道路線図はマニアック。鉄道建設の歴史という地図に廃線や予定線も掲載。駅名や路線名変更の表も。当時、廃線はまだ根北線・川俣線・白棚線など限定的。舞鶴小浜間航路・境舞鶴間航路なんて知らなかったし、関釜航路・博釜航路は昭和24年休止か(戦後まであり廃止でもない!)
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
5 years
山上に、水の流れない谷があって、水田まである。全くの隠れ家的な別天地。古い河川争奪の跡かな。 近くの「果無」という地名もシュールだが、こんな小さな地名が果無山脈の由来なのかな…。奈良県十津川村。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
大正14(1925)年の人口別都市分布(冨山房の地図帳)。小さいドットは1万人以上の町だけど、当時は郊外を殆ど含まないからそれなりに街なのだろう。埼玉や神奈川・静岡はドットが多いが千葉は寂しい。北海道、栃木、新潟、長野、福岡は多くて、一方で朝鮮半島や台湾は現在から考えると街が少ないなぁ。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
2 years
あらためて愕然とする日本の土地利用(Google Earth Engine上のアプリ)。こんなに農地が少ないのか。東北と新潟・茨城・栃木までは平地に農地が目立つが、関東東海近畿中国の平野はグレーの都市域ばかり。メルカトルなので単純比較しにくいが、中韓や欧州と比べると茶色の農地の面積の違いに愕然。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
大正14(1925)年の“軍都”(冨山房の地図帳)。旭川、弘前、仙台、宇都宮、金沢、豊橋、姫路、善通寺、広島、久留米、熊本に6つ以上の記号がある。あと、東京、習志野、名古屋、京都、大阪、龍山(京城:ソウル)か。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
2 months
#20 万分1帝国図 で見る大正時代の #神戸。阪神間の市街地はまだ繋がっておらず #芦屋 は農村の風情で #精道村。阪神電車が集落をつなぎ、東海道線は六甲山麓を走る。さらに山ぎわを通ることになる阪急はまだない。市街の西郊、長田は神戸市内のようだが水田が卓越。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
6 months
昭和36(1961)年頃の #鉄道路線図。国鉄線は #複線 以上か #単線 かの区別が載っているが、新潟県内の #信越本線 は長岡を挟んだ宮内ー帯織と加茂ー新津が複線化されている。この地図で全国と見渡すと、本州日本海側で複線はこの2区間のみだ!
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
1964(昭和39)年6月16日13時1分、新潟地震M7.5が発生。最大震度5は新潟市、長岡市、仙台市などで記録。震度の割に被害が大きいのは液状化と津波のため。死者は26人と少ない。0歳の自分は東堀にいた。子供の頃何度も眺めた新潟日報社の写真集が本棚にあったので印象に残るページを画質を落として貼る…
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
5 years
釧路湿原の地図を久しぶりに見て、ちょっと愕然。地理院地図の湿地の表現(記号)があまりにもきれいに整列していて、人工的に耕地整理でもされちゃったみたい。以前の地形図では、適度にランダムな模様になっていて、自然の湿原らしかった。 ランダム模様の地図は昭和56年改測2万5千分1地形図「細岡」
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 months
大正14(1925)年5月5日、ちょうど99年前に発行された東京の地図。 #東京市15区 時代。新宿も渋谷も池袋もまだ郡部。山手線は東京の都心部をバイパスして郊外に引いた路線だったことが思い出されるが、既に市街地はその外側に連坦している。7年後に東京市は周辺の60町22村を編入して35区になる。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
8 months
#新潟市西区 付近の #治水地形分類図 を #地理院地図 で見る。液状化で駐車場が大きく陥没して車が落ちた新潟西郵便局は、砂丘と #後背湿地 の境目(寺尾前通)。水色横縞の #旧河道 や薄緑の #氾濫平野 でも被害が大きかったよう。被災地点を地図に落とし込んで検証することもこれからなされるだろう。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
気づいたらフォロワーさんが4491人にもなっていた。ありがとうございます。4491に因んで、徳島県の旧宍喰町(現海陽町宍喰浦)にある変な形の陸繋島(入り江はNASA湾のNASA港)を貼ります。
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治田 洗礫
1 year
#ブラタモリ #稚内。稚内市の #人口 のピークは約60年前の1964(昭和39)年頃で6万人にとどこうとしていた。1975年頃からは減少の一途。あと2年ほどで3万人を切ってしまうかも… 市街地は郊外に拡大傾向。
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治田 洗礫
3 years
昭和39(1964)年1月発行の東京区分地図帖(日地)を眺めると、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅は”村”の駅だったんだなぁとあらためて気づく。現・多摩市が町制を敷いたのはこの地図発行の3か月足らず後。さらにさかのぼって多摩村が成立したのは明治22(1889)年で、当時は神奈川県だった。
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治田 洗礫
5 years
今日開通した首都高小松川JCT。 グーグルマップの航空写真で見ると… 工事中の道路が船で運ばれて来ている!
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
先回のツイートのあと、また新たにフォローしていただいた方がたくさんおられて、フォロワー数が4514になりましたので、またまた徳島県ですが、「横石」の地理院地図を貼ります。綺麗な“繞谷丘陵(還流丘陵)”です。これも妙に細長い…
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
今朝早く、札沼線の北海道医療大学前から先が、地理院地図から抹消された。 先月から運行休止扱いだったものが正式に廃止となったための即日更新。 更新前後の地図を貼る。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
1 year
TBS「がっちりマンデー」で #燕三条 にリーガルの #靴工場 って紹介。調べると三条市の隣の #加茂市 の工業団地にチヨダシューズ新潟工場。東京靴流通センターやシュープラザを展開する㈱チヨダとは別。番組の”燕三条市”はいただけない。工場は燕三条駅の近く、ということ。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
2 months
#20 万分1帝国図 で見る大正時代の #大阪。市域が狭い! 天王寺駅の南口や #天下茶屋 は #西成郡天王寺村。#鶴橋 や中津も市外。海側は #天保町 や #桜島 まで大阪市内ですね。古い郡名や町村名が面白い!#摂津 と #河内、#和泉 の国界(境界線)も!
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治田 洗礫
6 years
大阪湾の古名「茅渟海(ちぬのうみ)」が戦前の地図には併記されているが、当時はそれなりに使われている地名だったのだろうか。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 months
昭和8(1933)年の日本全図(大阪朝日新聞付録)。1918年から #内地 なみとなっていた #樺太 は普通に日本国内。北海道のように支庁が置かれ、地図の当時は7支庁体制だが、最大9支庁最終4支庁と変動が幾度もあった。樺太庁は豊原町に置かれたが、道府県は道庁所在地などと呼べるが、豊原は庁庁所在地⁇
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
6 years
国道336号の十勝川を渡る旅来渡船にて。開発局管理の直轄国道の渡船だが車は渡れない。29年前のことである。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
1960(昭和35)年5月24日、前日に南米チリ沖で発生したチリ地震の津波が日本の沿岸に到達、甚大な被害が出た。 北海道では、浜中町の主邑である霧多布で、襲来した津波により砂州が流出、陸繋島だった半島が島になった。ムツゴロウの畑正憲さんの嶮暮帰島。津波の前は砂嘴を電線が渡っていたんだな。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
新潟の名物が「硫酸」と「紙」。一般旅行者向けの鉄道路線図に記載された特産品。たしかに戦前戦後、新潟での硫酸会社の存在は大きかったよう。社会科地図帳じゃあるまいし、不思議な趣味を持った地図製���者だったのか。紙は北越製紙。硫酸工場は関屋(現・新潟第一高校)と山ノ下(榎町)にあった。(続)
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
5 years
昭和20(1945)年11月12日、二又トンネル爆発事故が起きた。日田彦山線二又トンネル(当時は未成線)内に陸軍が隠していた火薬の処理作業中に大爆発、山体と多数の民家が吹き飛び、死者147人負傷者149人を出した。事故後に開通した路線は巨大な切通しのようになった。地理院地図とグーグルストビュー。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
5 years
東京周辺の道路網。33年前と現在を比較。33年でよくこれだけ作ったものだと思う。環状線がほぼ皆無だった。 昭和61(1986)年10月のエリアガイドと2019年10月のハイウェイウォーカーから。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
6 years
富山の街は神通川で分断されていた。鉄道駅は城下町の対岸に設けられた。洪水対策で流路変更が行われ、廃川部分を埋め立てて官庁街を作って町が一体化された。明治43年、昭和5年、現在の富山の地図。もし分断されたままだったらかなり違っていただろうな。
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治田 洗礫
3 years
千葉県茂原周辺のガス井。地理院地図Vectorで油井・ガス井の記号のみを拡大して表示してみました。
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@mmykrs
MMY-剣道❤️/猫❤️今年120回稽古と100日休肝日目標
3 years
これには書いてないけど東京と千葉の下には関東ガス田っていう日本の供給できるくらいの埋蔵量のガス田があるんですよ... ヨウ素がいっぱいだし水溶性だから組み上げて地盤沈下するからって操業してないらしいのですけど..秋田とか北海道でP&Aきちんとしてない油井が自噴してるって聞いたことある。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
今朝の新聞に出ていた都道府県別の最低賃金額の地図。富山県は比較的高いんだなぁ。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
2 years
安城を主邑とする碧海台地を”日本のデンマーク”に変えた明治用水。その最上流部、矢作川の頭首工の川底から透水層に大規模漏水して用水への取水が困難となり、影響が甚大となっている。地理院地図を色別標高・陰影起伏・傾斜量図で加工すると地形の特徴が掴みやすくなり、用水の設計理念を窺える。
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治田 洗礫
2 years
地理院地図で「銀座」を検索すると102件ヒットするが、ほんとうの”銀座”が由来なのは、東京都中央区と京都府伏見区の2つ。他は”あやかり銀座”だが、通常は街の繁華街。ただ、宮崎県川南町はなぜここが…。栃木県市貝町の銀座もかなりなもの。一方で、城下町などでは歴史的地名と誤解されかねない。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
10 months
#御食国 (みけつくに) #若狭 と大消費地の京を結んだ #鯖街道 には複数のルートがあったが、メインルートは #若狭街道。そのルートは直線的で険しい山越えがない。そう、#断層 の地形を利用しているから。#熊川断層 と #花折断層。前者の真ん中にある #熊川宿 は今に歴史を伝える街並み。#ブラタモリ
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
佐賀県にある「づ」で始まる珍しい地名「ヅーベット山」 戦前の地形図にも当然載っていて、新仮名遣いでズーベットにしなかったのが不思議。地名の由来は定かではないが、滑ることを当地ではヅベるといい「滑っとー」がヅーベットになったとか…
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治田 洗礫
3 months
都道府県別の #出生率。東京都が1を切ったことが話題だが、全国的には南高北低、西高東低。1.0台は北海道と宮城県。九州と東北が対照的だが、なぜ東北地方は低いのだろう。人口減はさらに加速する…
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治田 洗礫
4 years
1987(昭和62)年3月30日、国鉄羽幌線が廃止された。 在りし日の時刻表から… 羽幌線が載った最後の時刻表の索引地図とタイムテーブル、まだ急行も走る1976(昭和51)年のタイムテーブルも。
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治田 洗礫
11 months
昭和27(1952)年の帝国書院の中学校社会科地図に昭和25年の日本の #物価 地図が載っていた。東京に次いで、南関東から静岡、名古屋から京阪神に加えて、北九州、長崎、広島、高知、北海道の物価が高い。一方で福島と長野が安い。いろんな要因があるのだろうが、炭鉱の景気が良かったとかもあるのかな…
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治田 洗礫
4 years
戦前の東京。昭和7(1932)年に周辺の82町村を編入して15区から35区になった東京市。昭和8年初版(11年版)の龍王堂の地図に編入時の地図が載っていた。村から東京市に編入したのは水元村と志村の2村。記されている人口は昭和5(1930)年国調人口で旧東京市は2,070,913人の0が一つ落ちている。
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治田 洗礫
3 years
昭和2(1927)年の鹿児島県の地図。まだ鉄道網は発展途上なのに、志布志までの鉄道が既に開通している。志布志って小さな町なのに不思議。当時から重要視されていたのか、現在は重要港湾で中核国際港湾だし、東九州道が迂回して立ち寄る感じで予定されているうえに都城志布志道路が開通しつつある。
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治田 洗礫
3 years
昭和58(1983)年の新潟市中心部(昭文社)。あまりにも現在と違っていて改めて驚く。自分は大学生の頃で“最近”という感覚なのだが約40年も前。どこもかしこも変わっていて枚挙にいとまがないな。県庁・市役所・併用軌道・県民会館・柳都大橋・伊勢丹・ダイエー・駅南・朱鷺メッセ・教育学部・鉄道病院…
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
4 years
昭和初期の市町分布図。黒い四角■で示された人口10万人以上の都市は、北海道3、東北1、関東3、中部3、近畿4、中国3、四国0、九州5、台湾1、朝鮮2、と大連。大正14(1925)年の市の国調人口ランキングを作成。東京市は関東大震災の影響で2位に陥落していた。九州の1位は長崎で福岡3位、北海道は函館。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
5 years
昔の幹線国道は街中をいちいち抜けていた。街道が元々なので当然なのだが、道路地図に市街地通過の略図は付き物だった。昭和43年のミリオン地図の村上市を見ると、なるほど。城下町の鉤形街路が酷くて、昭和40年に早くもバイパスが完成している。昭和28年応急修正の5万図と地理院地図とも比べて見る。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
新潟市。古町の苦境。 公共交通で見ると西新潟を除いてバスは古町をほとんど通らない。初めに都市化が進んだ関屋・青山・小針・寺尾方面からは古町の向こうに万代と新潟駅だったが、越後線を使えば白山から新潟駅に着いてしまい、古町はスルー。郊外線のバスは万代シテイバスセンターに集中。(続)
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治田 洗礫
8 months
#能登半島 とくに #奥能登 はほぼ全体が #中山間地 ではあるが、高山はなく丘陵が続き、比較的浅い谷間に集落が点在。険しい山地の伊豆半島とは対照的で、#南房総 と地勢的には似ているように思う。ただ、地質的には、能登半島は火成岩主体、房総半島は付加体や砂岩・泥岩。伊豆半島は火山だ。(続)
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
3 years
色別標高図で仙台をみると、色の付け方によって見事に直線構造が浮かび上がり、活断層図で断層と確認できる。仙台城下は全てが断層の北西の台地上に乗るが、宮城刑務所の場所にあった若林城の城下の町割は断層で分断されている。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
5 years
日本の山岳標高ランキング。戦前、台湾の新高山(玉山)が1位だったって有名だけど、2位が富士山というわけでもなかったんだ。次高山とか、台湾には高い山が沢山!
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治田 洗礫
3 years
明治22年の輯製20万図。新潟は西蒲原郡、沼垂は中蒲原郡。萬代橋はいわば”両郡橋”のわけだな…。西へ向かう北陸道と南に向かう三國街道。北陸道は学校町通、三國街道は白山浦の旧電車通りか。現在の新潟市役所の辺りが分岐点。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
8 months
昭和37(1962)年の札幌周辺の地図(日地出版)。この頃の現札幌市域の人口は65万。江別が4万弱、北広島が0.8万。現在が札幌195万、江別12万弱、北広島5.7万だから、軒並み3倍かそれ以上。北海道全体ではとも��510万でほぼ同じ!(途中増加してから減少)。札幌周辺のシェアは15%程度から50%近くに増加。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
5 years
「自動車学校」が載っている昭和30年頃新潟市発行の観光・産業案内。この関屋自動車学校は大正14年創立でわが国でも屈指の古さとのこと。「競馬場」は昭和40年に現在地へと移転していった。今は無き東関屋駅から信濃川を渡る橋は「塩の橋」という木橋で新潟地震の頃まであったらしい。
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@Harita_arayshi
治田 洗礫
2 years
#面白い地図 を入手。一級国道及二級国道図。 #3 桁国道 に欠番がなかった時代。 #国道111号 は現在の #国道45号 。 #国道49号は115号だった。 #国道網 はずっとシンプルだったが、下北津軽の両半島には国道無し。 地図はけっこうアバウトだ。一覧表も貼る。
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