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中島 智 Profile
中島 智

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@nakashima001
中島 智
7 years
「私は数学者なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。」 岡潔『春宵十話』
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中島 智
3 years
アフリカに住んでいたとき、イレズミ(瘢痕文身)の無いぼくの裸体は、非文化的、すなわち野蛮なからだと見做された。身体加工は、高貴さや、名誉、そしてなによりも文化的存在であることを表す。これは欧州近代社会における「着衣」に相当するもので、ゆえにイレズミの無いからだは、猥褻でもあった。
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中島 智
2 years
美術系の学生には、きちんと一人遊びしてきたんだね、放っといて貰えたんだね、と祝福したくなる方々が多い。一人遊びができてないと、自分の考えや好みがわからなくなる。つまり、自分の無意識からのシグナルが読めなくなる。すると、周りに合わせたり、比べたりすることしかできなくなってしまう。
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中島 智
2 years
なぜ絵を描くのですか?には「あれを観てしまったから」としか言いようがない。なぜ音楽を?でも、なぜ文学を?でも同然である。「聴いてしまったから」であり「読んでしまったから」である。これを贈与/受贈とすると、作品制作は返礼/祓いになる。それは誰も受けとらなくても、呼吸として成り立つ。
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中島 智
9 months
米国人がどこでも英語しか話さない問題についてのポストが廻ってきた。以前、慶應大学で現代思想を担当していたとき、教員親睦会にて英語で話しかけてきた米国人英語教師に日本語で応えたところ「Speak English !」とのたまうので、「間違えてもいいんだ、日本語で話しなさい」と返したことがあった。
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中島 智
4 years
児童絵画教室で教えていたとき、自らの幼少体験から、決してやってはならない質問というのを決めていた。それは「なにを描いたの?」「なんのために描いたの?」といった、絵を説明させる質問である。児童たちは質問されてはじめて考える。だが、それは絵についてではなく、相手への最適解についてだ。
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中島 智
1 year
自分が先輩からされて嫌だったことを後輩にしない方々は、親からされて嫌だったことを子供にもしないし、自分の伴侶や子供がされて嫌なことも異性にはしない。けれど、柔道部時代に「この悪習は止めるよ」と言ったら「やっとやれる側になったのに」と不平が起こった。それで問題は権力志向だと解った。
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中島 智
8 months
創作が好きで芸術系大学まで進んだ学生とか、あるいは研究が好きで専門学科に進んだ学生でもそうだろうが、彼らの「好き」を奪って、潰すことは簡単である。ひたすら「それをやる理由は? 意味は? 意図は?」と問い詰めていくだけでよい。これから進学される学生さんたちは、この罠にだけ留意ほしい。
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中島 智
3 years
小学校の図工では「風が見えるの?見えないものは描いちゃダメ」と言われた。中学の美術教師は「エジプト人は横顔しか描けなかった」と嗤った。高校の美術教師は「空を描くのはいいが、空はこんなにマティエールで盛ってはダメ」と評した。みんな絵を〈絵の思考〉ではなく〈現実の再現〉に貶めていた。
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中島 智
2 years
画学生には「好きな作家、尊敬する画家の絵はどんどんトレースしなさい」と勧めてきた。身重ねしていくこと。身体を重ねることによって「この作家の身体は私の身体ではない」と、自身の身体がわかる。どうしても重ならない深い欲動がわかってくる。これをしないと「好きな作家」が亡霊として付き纏う。
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中島 智
2 years
以前、美術館で子ども美術鑑賞会をなさっている方からアドバイスを求められたので「鑑賞会の輪から離れていく子を、輪にいれようとしないでください」とだけお願いした。美術の道にすすんでいくのは、そういう子なのである。じっくりぼーっと観て、ゆっくり悶々と考えていたい子なのである。
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中島 智
7 years
日本女性の化粧の変遷100年 モデルが一人だと、たまたまその時代に産まれた偶然が、よりリアルさを持って迫ってくる。
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中島 智
6 years
子供のころ、秘密基地をつくって判ったのが、仲間とつくると〈閉じた場〉になり、自身のために独りでつくると〈世界に開いた場〉になること。だから、一人遊びをしている子供を〈閉じている〉と誤解してはいけない。自身のために制作している作家もまた、これと同様である。
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中島 智
9 months
すると顔を真っ赤にして彼は席を立って行った。本邦では英語人に優しすぎる。スペインにいた頃は、スペイン旅行しながら英語で済まそうとする米国人に、スペイン人駅員が「英語はわからん」と突っ撥ねておられた。これは異文化にたいする敬意の問題なのである。
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中島 智
1 year
リアリティにまつわるピカソの逸話にこういうのがある。 ある人:なぜあなたはありのままに描かないのですか? ピカソ:おっしゃる意味がわかりません ある人:(財布から妻君のポートレート写真を取りだして)こんなふうにありのままにですよ ピカソ:奥さま、ずいぶん小さくて平べったいのですね
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中島 智
3 years
たまに学生などから「プロになるにはどうすればよいか」と訊かれると「勘違いすることです」と答える。歌手でも作家でもそうだが、実力をもつ人なら無数にいる。そのことを正しく認識しないこと。それが「順番待ちのプロ」と「列に列ばないアマ」との違いである。機会が廻ってくるのは前者なのである。
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中島 智
24 days
いちばん喧嘩が強いのが番長や総長になるわけでもないし、いちばん美人なのがミスキャンパスになるわけでもない。いちばん悧巧なのが学者になるわけでもなく、いちばん独創的なのがアーティストになるわけでもない。そんなことは小学時代から見知っている道理で、たんに手を挙げるかどうかなのである。
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中島 智
2 years
ネコにGPSを着けて、行動分析するBBCドキュメンタリーを視た。行動エリアはきっちり縄張りをもっており、住宅密集地では時間差を設けて互いに遭わないように工夫。狩りにも出かけるが、別宅のキャットフードを盗み食いもする。徹底して単独行動だけれど、自宅に帰ればペットのふりをして暮らしている。
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中島 智
4 years
先日、某美術大学の卒制トークで聴いた話、画学生さんも困っていた最近の風潮のことだけれど、学生に「作品の社会的意義」を求めることはやめよう。それが「共同的フィクションの再生産」を求めていることだと、教員たちが気づいていないのだとしたら、それこそが忌々しき問題である。
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中島 智
5 months
絵が描ける資質というのは、手先が器用とかよく言われるけれど、じつのところ人間以外と対話ができる資質のほうが大きい。でないと一日のほとんどを画室で過ごす孤独に耐えられない。対人的孤独に耐えられなければ誰かを誘ってお茶にいく。これが描けない人。画家は非人間と対話するので孤独ではない。
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中島 智
2 years
対人関係は「そうきたかァ」と愉しむもので、思い通りにならないのが他者である。子どもが、恋人が、期待通りに応答しないときイラッとするのは、依存心にすぎない。この依存に気づかないと依存的敵対関係に発展してしまう。人には天候のように曇りもあれば雨もあって「そうきたかァ」と付き合うもの。
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中島 智
3 years
学生のとき、よく駅や道路で「神を信じますか?」と勧誘された。「お疲れさま、僕がその神ですよ」と答えても一人も平伏さなかったけれど、「お疲れさま、体冷やさないようにね」と答えると「あ、幹部でしたか」と平伏すことから、彼らの「神」は個別認識ではなくパターン認識なんだと理解した。
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中島 智
11 months
喧嘩慣れしている人にとって喧嘩は和解プロセスにすぎないもので、そうじゃなかったら無意味なのでやらない。しかし喧嘩してこなかった人にとって喧嘩は勝ち負けを決める決死のゲームになってしまうので、どんな手を使ってでも相手を貶めることが目的化する。喧嘩をしらない人とは喧嘩してはならない。
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中島 智
10 months
子どもの頃、山で秘密基地を作った体験について「一人で作ると世界に開くが、仲間と作ると仲間に閉じる」とポストしたことがある。この「仲間」というのは「人間界」とも言い換えられる。一人でしか開かれない視界というものがある。とくに美術制作では顕著である。できれば美術鑑賞でも一人がよい。
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中島 智
11 months
愛が憎に変わるのではなく、依存が憎悪に変わるのである。相愛空間が霧消するのではなく、承認欲求が飢渇するのである。つまりは、はじめから出逢っていなかったということ。愛はけっして憎にはならない。
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中島 智
3 years
展覧会では、多くの観客が1つの作品を1分も視ない。例えば、絵を描かない人が描く相方といっしょに絵画展にでかけたとする。片方はもうキャプションも読み終え、なぜ相方がこんなにも長くじぃーっと眺めているのか、訝しく感じるかもしれない。答えは単純だ。その人は、その絵を描いているのである。
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中島 智
2 years
美術鑑賞して「よかった」と言う人と、当てられて「つかれた」と言う人とがいる。これを〈見る〉と〈観る〉とで呼び分けているけれど、〈見る〉人いうのは表象を見ているのである。当てられて〈観る〉人は、表れなかったものを観ている。それが運動で、身体運動から変換運動までに、巻き込まれている。
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中島 智
3 years
これは文化研究をする者にとって悩みどころで、原則的にはすべての風習に馴化するけれど、どうしても駄目なものはどうしようもない。個人的にも、身体を重ねてしまえば、こころが動かないわけがないという問題があった。幸いにも、イレズミのない裸体だったし、肌の色もちがう他所者として赦しを得た。
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中島 智
1 year
絵を描くひとが、面白いように描ける!と悦びを語っていたり、かと思えば、描けない!と凹んでいたりすると、「それは振り子だからね」と助言する。呼吸の、呼と吸みたいなものだと。ところが描けることが正常で、描けないことを非常事態と誤解すると、そのひとの振り子が健やかに振れていかなくなる。
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中島 智
3 years
アフリカでは部族の仕来りに従って生活していたのだけれど、一つだけ従わなかった風習が「現地妻」だった。村じゅうの娘を集めて、選べと迫られたが断わった。もし、娘に好きな誰かがいたり、彼女に片想いの青年がいたりしたら、と想うとどうしても駄目だった。娘たちは選ばれたい素振りだったけれど。
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7 months
対人表現というものは基本的に自己投影の世界である。ヤンキーが威嚇するときは「自分ならこれでビビる」だし、プレゼンテーターなら「自分ならこれで納得する」、笑かす人は「自分ならこれで笑う」だし、罵倒する人なら「自分ならこれで凹む」ということで、自身がもつ性向をその相手に開示している。
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2 years
しばしば「100年前とは思えないアート作品」とか「1000前なのにゴスイ」などと宣う感想を見かけるけれど、これが進歩史観なのである。何度もいうが、芸術は〈進歩〉しない。その表れが〈変���〉するのである。進歩はテクノロジーの問題であって、ヒトの思考能力も身体構造も、まったくかわってない。
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中島 智
4 months
例えば「しにたい」という言葉が浮かんだときは「にんげんから出たい」とか「変身したい」くらいの言葉に変奏してみたほうがよい。前者が観念的なら、後者は身体的で、ヒトは古来さまざまな異種、動物たちに〈まねぶ〉動物だった。まね(学・模倣)では、はじめに身体が同期して、それに〈なる〉。
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中島 智
2 years
描かなければ死んでしまうひとを祝福したい。絵に出逢えたことを祝福したい。それが解らぬひとは、「作品としてどうこう」などと軽軽に言うべきではない。 描かなくても死ななくなったひとを祝福する。絵筆から離れても生きていられることを祝福したい。それを「脱落」などと評することは愚昧である。
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中島 智
1 year
あるオジサンが風采のあがらない姿にみえるかもしれない。けれど、「この子はどんな大人に育つかしら」と祷った人には「見てみたかった姿」なのだ。 あるオバアサンがしょぼくれてみえるかもしれない。だけど、「君がお婆さんになるまで見ていたい」と願った人にとっては「見たかった姿」なのである。
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中島 智
4 years
オトナが、あるいは美術教師が「なにを描いたの?」と学生に訊くことで、学生に「なにを描くかをアタマで決めてから描かなければならないようだ」とか「描いたものは自分の責任として説明できなければならないようだ」といった、トンデモなく誤った〈制作観〉を植えつけてしまうことになりかねない。
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2 years
「一人遊びは大切」ツイートが拡散している。以前拡散された「秘密基地を独りで作ると〈世界に開いた場〉になり、仲間と作ると〈仲間に閉じた場〉になる。だから一人遊びをしている子を〈閉じている〉と誤解してはならない」というツイートと反応が似ている。誤解されやすい事実なのかもしれない。
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中島 智
4 years
中谷ミチコの作品が、銀座線・虎ノ門駅の渋谷方面行きホームに設置されたとのこと。彫り込むことで飛び出して視える錯視は、古代ギリシアから継承されいる彫刻技法である。
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中島 智
2 years
例えばピアノの速弾きの速さに感心する人々は多いけれど、スローに弾かれたピアノの速さに酔う人はすくない。もしスローさが密度を伴わないなら、ただの粗雑さである。相対的にはスローなほうが濃密になる。舞いでもおなじ。語り芸でもおなじ。これがわからないと、絵画や写真の濃密さもわからない。
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中島 智
2 years
芸術なんて所詮、遊びじゃないか? と言われたことがある。遊びである。しかし遊びの意味がわかっていない。それは〈生〉の尊厳なのである。だから美大を巣立った卒業生たちは、たとえ信じていた社会システムが機能不全になっても、強制収容所でも、難破船とか災害避難所でも、尊厳は失わないだろう。
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中島 智
3 years
絵が、なにかの表象(再現)だと考える人たちには、絵自体が考え、絵が絵をうみだすイメージシンキングが視えない。そうなると、絵を教えるには表現内容をあらかじめ明確にしておくことが重要、と考えてしまう。そして絵を、その意味内容を再現するための、コミュニケーション・ツールに貶めてしまう。
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3 years
むかしむかし美大にはいって変わった認識として鮮烈だったのは、「美術って “高級文化” じゃなくて “野性” だぞ」ということや、「一番になりたいと志したけど、みんな違う土俵にいて、同じ基準では測れない」ということや、「未完成から完成にむかうんじゃなくて、いまの完成があるだけ」ということ。
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中島 智
1 year
SNS友達がけさ、付き合ってはならないのは批判しない人と書いていて、この批判がわかるわからないは学童向け道徳番組でもくり返しテーマにされてきた問題で、わからないと批判は誹謗、難癖にしか見えなくなる。嫉妬深い人は「妬みの言葉」、上下関係で見る人ならば「見下し」としか解釈できなくなる。
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中島 智
5 months
依存体質というのは、自己愛が肥大しているので相手は他者ではなく代替可能な対象にすぎない。つまり対象に自分が見たいものや聴きたいことを求めるので、欲しい答え以外は「応えてくれない」とか「否定された」となる。これを日舞家元の知友は「受信機にならない人ほど発信機のせいにする」と表現した
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中島 智
1 year
美術大学で教えてきて痛感するのが、高校までに出逢った美術教師などが美術作家だった学生以外は、たいてい美術をヒトのコミュニケーション・ツールと考えていることだ。例えば絵画は「ヒトがイメージしたもの」と理解していて、「イメージがイメージしたもの」だということが全く視えなかったりする。
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中島 智
3 months
藝術系学生へ。藝大・美大というのは学ぶところであって教えてもらうところではない。学ぶ人だけが飛躍していく。先生がこう言ったとか、こう評価されたではなく、あえて何を言わなかったのか? と問える人、どんな伸びしろをみて減点されたのか? と考えられる人になれ。それが学びを学ぶということ。
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中島 智
5 years
ずっと「愛が憎に変わる」ということが理解できなかった。けれども、この頃すこしみえてきたのが「依存は憎悪に変わる」ということ。「依存」では、相手の意思よりも、自分の欲望こそが優先される。いわば相手は欲望対象としての〈記号〉であり、代替可能なのだ。よって、欲望に応えない=敵、となる。
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中島 智
5 years
ガラケー全盛時代、ある教員が「メールを携帯で送ってくる学生はケシカラン」と怒っていて、「面白い、電子メールなんて歴史が浅いのに、すでにパソコンと携帯とで序列があるとは!」と民俗学的興味を示したら、3ヶ月間、口を利いてくれなくなったことがある。スマホ時代の現在は、どうなのだろうか。
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中島 智
1 year
もしかりに芸術作品の大半が意識的に作られたものだと勘違いしてしまうと、お勉強できる子とか、小賢しい人ばかりが評価されてしまう世界へと堕落してしまうであろう。人類の無意識をたのしむ方々に幸あれ。
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中島 智
2 years
肺臓に劣らない、呼吸としての制作。ところが社会性信者はしばしば「そんな独りよがりな作品に意味なんかない」だの「誰かに見せ/聴かせなきゃ作品じゃない」などとのたまう。これは換言すれば「社会的でなきゃ、君の〈生〉、君が〈呼吸〉してることなんて無意味だ」と愚言しているようなものである。
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2 years
周りを見ながら動くことが身についてしまうと社会性依存になる。そこでの動因は、周りから褒められたいとか認められたいという欲求に収斂されていくので、副作用として批判にめっぽう弱くなる。一人遊びに熟れた子なら、一つの規則ではなく、無数の(モノたちの)聲に親しむので、聲の一つと受けとる。
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大学生の頃、一廻り歳���で、美術批評を書いていた友人になにか話題を振ると「保留!」と返された。「難しいね」と他責化するのでなく「しらんがな」と逃げるのでもなく、まだわからないことを「わからん、保留!」と返していた彼に、学術への、そして人間としての誠実さを学んだ。
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中島 智
11 months
舐められた、と感じるのは、上下関係でみているからだし、否定された、と感じるのは、その相手に依存している証しである。相対評価ではなく絶対評価、あるいは自己評価ではなく自己肯定、と述べてきたのは、土俵を単数化しないこと。「よい私」ではなく「そのような私」なら、誰かを否定しなくてよい。
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中島 智
4 years
幼少期を思い出すと、オトナから「なにを描いたの?」と訊かれたら「(ここに描いたもん以外のなんでもねえよ!)うーん、わからない」と答えるか、適当に捏造して答えるしかなかった。たとえキャラを描いたとしても「オバQね?」と言われたら「(似とるけどコレはコレじゃろが!)うん、オバQ」と。
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中島 智
1 year
美術に進んだおかげで妬み嫉みといった感情から比較的解放されていられる。というのは、嫉妬というものは置換可能性だからである。資産家とかの隣家には嫉妬しても、大谷翔平が活躍しても妬まない、むしろ祝福するひとが多いのはそのせいである。いわば比較幻想を捨てたときに他者を寿ぐことができる。
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中島 智
1 year
くり返すけれど、芸術鑑賞において「それはナニか/what」と視ることは、既存の引き出しを検索して、解釈することである。一方で「それはどのように在るか/how」で視ることは、それをなぞり、身がさねして、体験していくことである。それは、その追行為によって新たな引き出しを制作することである。
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中島 智
5 years
吾妻ひでおが、最期の病床で描いていた漫画原稿。
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中島 智
2 years
未来概念のないアフリカで暮らしたので、未来は変わるべきという強迫観念のほうが気になる。変わらなければ変わり映えなく、進歩も発展もないという強迫観念は、裏腹に、現在をそのような様態に見せている。この形式主義、進歩主義さえ外せば、現在を、不断に生きられる即興として解き放ち、愉しめる。
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中島 智
2 years
「価値あるニンゲンでありたい」ということは「代替可能なニンゲンでありたい」ということである。価値とは、代替可能性にほかならないからだ。これが価値というものがもつジレンマである。価値から嵌みだすものが、めんこさである。
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中島 智
1 year
個展をすると痛いほどわかることだが、ほとんどの方々が「それってあなたが抱えている問題でしょ?」という感想しか言わないこと。泣きだす方までいる。さて、ここが作家の分岐点でもある。正直に「それはあなたの自己投影です」と言うか「なるほど面白いです」と言うか。後者なら好評の展覧会になる。
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中島 智
4 years
美大・藝大で20年も語ってきたことだけれど、ある分野に〈入る〉というのは、専門知識で〈わかる〉ことではなく、その領域特有の回路を〈拓く〉ことなのである。だから「聡明だからわかる」といったものではなくて、「回路が組み換わったから参与できる」もの。この基本が、いまだ広く滲透していない。
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中島 智
1 year
「大人になっていくということはね、ものをゆっくりした速度で、正確に、確実に、ゆっくり考えていくということができるようになるのが、大人になるということだと僕は思っています。」大江健三郎
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中��� 智
5 months
学業でもスポーツでも芸術でもそうだが、あまり簡単にデキすぎると面白くなくて辞めてしまうということが普通にあって、むしろすこし苦手くらいのほうが熱中して続けられ、結果的にはデキる人よりも先に行けたりする。つまりは幸福論にかかわるわけで、継続の力というのは苦手と憧れの力だったりする。
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中島 智
3 months
講義で「表現されたものを見たら、表現されなかったものを必ず見てください」と話した。さらに、表現されなかったものに貫かれてしまうのがクリエイターで、表現されたものばかり見て、解釈してしまうのが非クリエイターだ、とも。「表現されなかったもの」を観るには、制作行為に溯行する必要がある。
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@nakashima001
中島 智
4 months
性格が悪い人は、じつは打たれ弱い。性格の悪い人が謎自信をもつように見えるのは完全無欠を自認しているせいではなく、ジャッジする側であることを盲信しているからにすぎない。すなわち、そのジャッジを自らに向けてシミュレーションしても自身のジャッジ基準を出ないだけであって、じつは打たれ弱い
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中島 智
6 months
絵に限らないけれど、放っておくと陥りがちな問題のひとつに、論理的知性にすぐれた方々ほど情緒的な絵を描きたがり、すぐれて感性豊かな方々にかぎって理知的に描こうとしてしまうことがある。ゆらぎに鋭敏な方が、自らのゆらぎを味方にしないで堅牢な〈私〉を纏おうとすると自己去勢になりかねない。
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中島 智
1 year
描画恐怖症というものがある。多くは図画工作の授業で罹り、これを免れて美術大学に進むことで過半数に罹ってしまう。その病因は「よいものをつくる」という美術への誤解であり「よいものでなければ意味がない」という洗脳である。ここには自己肯定と自己評価とを混同させてしまう外圧的な問題がある。
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中島 智
2 years
SNSでいろんな作家の声が聞けるようになって再認識できることは、「結局どういうこと?」と誰かに問われたときに「つまりこうだよ」と簡単に応えられる人たちは、その答えによって自らを削ってしまっていること。「結論をださないでいられる」胆力というのは、作品にとって、じつに豊饒な態度である。
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中島 智
1 year
よく作風がバラバラな作家をふわふわしてるとか核心がないとか誤解する人がいるので、実際には核心、確信をもつ作家ほどそこから放射状に作品が現れてくるのでバラバラに視えるだけなんだと述べてきた。ふわふわした人ほど作風に一貫性を考える。同様に、意志薄弱な人ほど無矛盾のストーリーを求める。
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8 years
排除アート 「都築響一氏は、これらの行政のやり方は、悪意があるように見せないことが大事で、排除アートだということを市民に気が付かせないようにするのが“芸”だという。」
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中島 智
4 years
藝大油画の学生さんが「ことばにするの苦手…」と言って、「ぼくも苦手…」と応えながら、ぽつりぽつりと会話していくことの愉楽は、ことばで考えているのではなくて、〈それ〉をことばにしようと藻掻いていることの健やかさにある。だから、その “ぽつりぽつり” には、色があり、質感や、空間がある。
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中島 智
3 years
描かない人たちが絵画鑑賞を手早く済ませるのは、そこに「なにが描かれているか」を視るからである。そこから「意図」を推察する、いわば記号的な鑑賞である。一方、描く人たちが(ときには小一時間も)じぃーっと眺めていられるのは、それが「どのように描かれたものなのか」を再生しているのである。
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4 years
河鍋暁斎がデザインした千代紙 駄菓子屋で売られていた花札と千代紙は〈携帯できるハレ〉だった記憶がある。
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中島 智
2 years
よくある誤解に、美術館などで模写をしている画家をみて「技法を学んでるのね」とか、舞踊の稽古を眺めて「伝統の型を学んでるのね」という解釈がある。しかし本質はそこにはない。技法や型には〈固有名詞〉がある。舞踊家も邦楽家も「呼吸を重ねる」のだと言う。重ねることで、自らの呼吸に目覚める。
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@nakashima001
中島 智
2 years
先日のファミレス茶会で「気分の浮き沈みと、どうやって付き合えばよいですか?」と訊かれて、「アガってるときは、イケイケでしかできないことを自信もってやればいい。オチたときは、謙虚になれるチャンスなので、公民館の美術展でも、なんにでも素適さを見いだせるので、学べます」と答えた。
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中島 智
1 year
しばしば哲学者ですら間違えやすい問題に、他者理解というものがある。私たちは思考(なにを考えているか)を共有することも、世界(なにを見ているか)を分かち合うこともできない。他者理解というのは、構造(どのように分節し、組み立て、処理済とみなしているか)を理解していくことに他ならない。
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中島 智
3 years
「希死念慮と闘うにはどうすれば?」と教え子から。 「闘ってはなりません。闘うと巻き込まれます。季節の移ろい、気候を眺めるように、“来たな” と思ったら、とにかく嵐がすぎるまで、シカトする。波が引くまで、寝て待ちましょう。」
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中島 智
2 years
読書にせよ、芸術鑑賞にせよ、あるいは交際にせよ、消費者として「俺の糧になる?」「私に意味がある?」と消費するだけの付き合い方が目に余る。これは贈与に触れていない。それらの制作、生産、生は、記号操作で生じたものではなく、かならず贈与に由来している。いわば、人智をこえた来歴がある。
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中島 智
4 years
植物学者がTVで、ある実験を紹介していた。アサガオを愛情こめて撫でながら育てるとどうなるか。声がけしながら週に一回、チョンチョンと触るだけでも元気がなくなる。あまりにも人間的な〈愛情〉は、非人間にとって〈迷惑〉になる、という話。これは植物にかぎらない。傾聴しなければ、愛は失敗する。
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中島 智
3 years
「もやもやできるのは器量が大きい証拠」と学生たちに話してきた。例えばそれは、本を読んだり、話を聴いたりしたときに「つまりはこういう事だね」と、手許の知識でもって即断しないでいられる能力。このもやもや(保留)のなかでしか、新たな視界、クリエイティヴィティは拓けない。
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中島 智
4 months
詐術師や詐欺師は、かならず朗らかで落ち着いた人格を装う。しかしそれは実直さの戯画的イメージであって、ほんとうに実直な人物というのは少しオドオドして陰鬱さすら纏っているものだ。ところが騙される人は明朗さに惹かれる。つまり「上手くいってる人物」を演じたほうが信頼に足ると感じてしまう。
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中島 智
6 months
ある集団でデキないデクノボーとかアタオカとか見做されがちな方々のなかには実際すこぶる思慮深い方々がいる。それはたんに「思ったように動いてくれない」だけだったりするからである。なぜ彼らはノリが悪いのかというと自分の頭で考えているからなのだ。これが自分で考えない人にはウザいのである。
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中島 智
2 years
「描きたいものを決めてから描きなさい」という図画工作時代の呪いはおそろしいもので、「わたしは何が描きたいのか?」と描くまえから悩むようになる。この呪いを解くために「任意に立ち止まって、ボーッと良くも悪くも感じない、なぜか眼がいくものをスケッチ帳に集めなさい」とアドバイスしている。
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中島 智
2 years
飼い主たちは自宅でのペットしかしらない。これは人間でも同じで、家庭社会で会っている父母の、職場社会での人格など子供たちはしらない。職場の同僚は、アフター5の友人社会での人格をしらない。複数の人格が、複数の社会で実現されている。それは各社会が、各〈ストーリー〉だからなのである。
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中島 智
1 year
権力志向というのは特殊なことではなく、「尊敬されたい」と言う年長者、「慕われたい」と言う教員、「有名に/分限者になりたい(そのために何をしようか)」と考える若者、「勉強で/強くなって秀でたい」と願う子どもまで、いわゆる社会的承認を基軸にして考える人々に、素朴に備わっている欲望。
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中島 智
3 years
ほんとうに「鑑賞者が作品を完成させる」的な、作品をメッセージ(意味内容)を伝言するお手紙か何かのように勘違いしている方々、作品を「実存」としてでなく「コミュニケーション・ツール」としてしか見れない方々は、学生の作品講評会とかに出ないで欲しい。でなければ、被害者窓口が閉じられない。
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中島 智
2 years
ブログ文化、SNS隆盛によって、ヒトは「語りたがるサル」になった。それでも「語ることとは何か」ということは、存外しられていない。語る快楽とは、その語りのなかで「俺が行為主体/主役になる」快楽に外ならない。それは「私」が脇役の世界からでて「私」が事物を串刺しにする視界が得られる快楽。
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中島 智
2 years
あなたが誰であろうとあなたに興味がある、というのが個人との付き合いである。あなたは何者か? が気になって仕方がないのは、社会的属性としか付き合えない人である。社会的属性は集合的観念なので、語りやすく理解しやすいけれど、それで理解したつもりになったら、誰とも逢うことができない。
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中島 智
1 year
美術館には「良いもの」があるのではなく「それを大切とみなす価値枠」があるのだと先日書いたけれど、これは人の作品を観るさいの基本でもある。観たひとが「良いと思えない」ことなどどうでもよいのである。「それを必要とした欲動」に身がさねができるかどうかなのである。観るとは、そういうこと。
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@nakashima001
中島 智
2 years
よくある倒錯に、例えば「美術館には価値あるもの object が収蔵されている」と考えてしまう誤解がある。実際のところは「価値を見いだす営為 relationship を記録している」わけだけれど、この「営為」に参与せずに、結果論しか視ない人々は、「アートは善いもの」と、他律として前提にすえてしまう。
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中島 智
4 months
美術教師ならよく知っていることだけど、初心者というのは決まってイイ絵を描こうとする。これはイイ事を言おうとするSNSポストと変わらない。つまり構造が視えていないから、物事をバランスでしか考えられない。バランスで構図を決め、バランスで語彙を選んでChatGPTのような作文を大量生産していく。
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中島 智
1 year
某NBA選手が「伸びる選手に共通するのは自分に欠けているものを知っていること」と語っているVTRを見かけた。内省的飛躍である。これは特に運動選手なら問題はない。というのも、いわゆる文系で「欠けているもの」を埋めていく方法だと、終いには博識だけど思考枠の稚拙なシニアになってしまうからだ。
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中島 智
1 year
思考でも創作でもそうだが、もんもんと闇のなかに揺蕩っていることに耐えられない人はたやすく慰撫的な光を見いだして、とにかく闇をなくすことを解決にすり替えてしまいやすい。助言者がいれば「そのもんもんはオリジナルだね」「その闇って根源的だね」と気づかせてくれて、闇そのものが味方になる。
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中島 智
1 year
「アウトプットすることに怖気づいて、何もできなくなり引き籠もってしまう」と DMにて相談。おそらくは完璧主義なのであろう。自分のなかにあるストック、知識やアイデア、技量などをアウトプットする、という図式で考えると完璧主義になる。アウトプットすることで着想し、共同制作していけばよい。
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@nakashima001
中島 智
2 years
学生の作品講評で、「グッとこない/なんにも伝わってこない」などという教師や自称専門家がいるけれど、それはたんに「あなたの感性で作られていない/あなたのために作られたものではない」という基本事実がみえていない。「だからこそ興味がわく」でなければ、そもそもアートに興味がないのである。
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中島 智
3 months
本当のことをひとつ言います。 自分語りが上手い人というのは大嘘つきです。 自分とは語りえないものです。
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@nakashima001
中島 智
3 years
いままで会ったことのある、コミュニケーションが得意だと自認する方々は、自分以外不得手だと思い込んでいる「早とちり」であった。すなわち、相手の状況がもつ複雑さへの推察、「表現されなかったことへの推察」がなく、語られたことのみで短絡にイメージを形成して、理解したつもりになってしまう。
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